国立大AOで入ったら

AOで大学へ入学したら、その後の人生どうなるか?

卒業を振り返って今思うこと

私の学校は本当に特殊中の特殊だったと思う。

全学年26人。

6年一緒。

もれなく担任も一緒。

教室もずっと一緒…ではなかったか。

兎に角、本当に狭い世界だった。

 

想像できるだろうか。

中学2年生の時に大ゲンカした友達と、毎日教室で顔を合わせてなんなら机も隣。

想像できるだろうか。

大っ嫌いな先生に体育を6年教えてもらう気持ち。

想像できるだろうか。

テストの順位なんか殆ど推測できてしまう世界。

 

卒業式の日、やっとこの6年が終わるんだという気持ちでいっぱいだったことだけを覚えている。

みんなで「早く卒業したいね」と言い合っていた6年だった。

もう進学する大学が決まっていたからというのもあるかもしれない。

私には次のステージしか見えていなかったんだと思う。

やっと私は、4年間あこがれ続けた場所へ行けるんだ!

そんな思いでいっぱいで、にっこにこの卒業式だった。

だから私はわからなかった。

どうして隣にいる人は泣いているんだろう。

どうして「早く卒業したい」と言っていたあの子が号泣しているんだろう。

サイコパスでしかない。

でも本当に、この時は不思議で仕方なかった。

 

この時は、気づかなかったのだと思う。

早く終わらせてしまいたい、という願いばかりだったのだと思う。

このあと、長い間「ずっとこの瞬間を漂っていたい」を繰り返すとも知らず。

 

約1か月後、謝恩会というものをした。

先生6年間ありがとう、という会。

その会の2次会で、ふと、きっとこうやってみんなで無邪気に集まるのはこれが最後なんだろうな、と思った。

 

きっとそのとき、もう戻ることはできないんだと実感できた時、私たちの関係は「名前の付けられない関係」に昇華した。

もちろん、くくりとしては「元同級生」なんだろうけど、それはなんか違うね、私とあなたの関係を言い表す言葉ではないよね、みたいな。

だって、高校はもう卒業しているから高校生ではないし。

大学にはまだ入学していないから大学生でもないし。

何の肩書も持っていない私たちが、さも同じ肩書を持った人であるかのようにふるまっている。

私たちは、多分私たち以外のだれにも理解できないであろう肩書を、6年かけて作り上げたのだと思う。

私はこの瞬間から、ずっとその「だれにも理解できないであろう肩書」によって作られた時間に魅せられている。

 

好きだったあの人に、好きだよと告げずに代わりにまたね、といった。

次いつ会えるか約束なんてないのに、私は約束をする代わりにまたねといった。

またね、が約束だったのかもしれない。

次もし偶然、何らかの形で合えたのだとしたら、今日の続きを楽しみましょう。

そんな、「何月何日どこどこ集合ね!」みたいな約束よりももっと深いところで、もっと重たく美しい約束を交わしたのかもしれない。

きっと私はその時、迷いながら、それでもこの形で良いのだと自分を納得させながら、でもきっともっといい方法があるのだろうという後悔も抱えながら、「またね」を絞り出した。

その時の何とも言えない表情は、6年間のどの瞬間より凛としていたんだろうな、と思う。

そう思いたい。

 

私がどうしようもなくバカだったことを知っているあの人も、

私がどうしようもなくおっちょこちょいだってことを知ってるあの人も、

私がどうしようもなく屑だってことを知っているあの人も、

誰にも知られたくないと思って今必死に隠している私を知っている。

私の秘密を持ったまま、でもあの人はそれに気づかず、というかそれを持っているという事実すら忘れて今を楽しんでいる。

それが、不思議でならない。

 

今でも、長期休みの度に集まってご飯を食べる仲の友達がいる。

この春は、旅行に行くらしい。

私は参加できないが。

でも、LINE電話で参加する予定。

私たちは、何でつながっているのだろう。

やっぱり、ただの「中高の同級生」なのだろうか。

もし仮にそうなのだとしたら、少し寂しいな、と思う。

 

そこに、私たちの間にしかないものがあるのだと、信じたいんだ、私は。

 

きっと、別れというものは、それまで積み上げてきた思い出を美しくするんだと思う。

「もっと」を言うことができなくなった瞬間、どんな出来事も、何にも代えられないものとして、自分の中に残っていくのだろう。

慈しむことしかできないと悟った瞬間、初めて過去という概念が生まれるのだろう。

わかる人にだけ、伝わればよい。

別れというものは、人生を美しくしてくれる。

 

またね。