私なりのツイッターとの向き合い方
ずっと書くか迷っていたことです。
恥ずかしいから伏せておこうかとか、
こういうことは言わずにおくのが正解なのではないかとかいろいろ悩みましたが、
このブログを始めるときに、調子のいいことだけじゃなくて、悩みとか足搔いてるところとかも全部さらけ出そう、と決めていたので、
やっぱり書こう、と思いました。
ここに書いてあることは、今の私が経験したり思ったり考えたりしたこと、そして現在進行形で考えていることの全部です。
もし読むことで不快になる人がいるのだとしても、これが今の私です。
なので書きます。
現状
ツイッターしばらくやめます。いつ再開するかはわかりません。理由は、うつ状態になってしまったことです。多分最近あいつおかしいな、と思ってた人もいると思います。迷惑をかけるわけにはいかないのでやめます。今まで私の書いた文章で不快な気分にさせてしまっていたら申し訳ないです。では。
— Reina (@R52713521) 2019年12月6日
ここにある通りです。
昨日、心療内科を受診して、うつ状態であり療養が必要である、という診断書をいただきました。
夏休み前に少し気分が沈みがちになったりすることはあっても、実家に帰ったり旅行に行ったりする中で良い方向に向かっていて、
もう大丈夫だろうと、3ターム少し気負いすぎたのが良くなかったのかなと思ったり思わなかったり。
なにか大きな原因がある、というわけではなく、気づいたらこんな風になっていた、という感覚です。
もっとも、ずっとそばにいて支えてくれている友達は、じわじわとだんだん気分の沈んでる時間が増えていっていた、とは言っていましたが。
自分じゃ気づけない、というのはあながち間違えではないのだなと。
というより、気づいてたけど見て見ぬふりをした、のほうが正しいのかもしれません。
起きるのがしんどいとか、友達と会うのがしんどいとか、外に出るのがしんどいとか、ご飯を食べるのがしんどいとか眠れないとか、段階を踏んではいたのですが、
「まあ、ただの疲れだろう」と、見て見ぬふりをした結果なのだと思います。
今は、一日の中でも調子が良くて動けるときと、全く動くことができずに、目が覚めてていてもベッドの上でずっと横になっているときと、という感じで、
以前のようにうまく生活できていない、というのが私の現状です。
これが、大体11月の後半から続いています。
私なりの、悩みごととの向き合い方
少し話が変わりますが。
私は文章を書くのが好きです。
うまい下手とか、得意不得意とかではなく、好きか嫌いかという軸で見たとき、
私は文章を書くのが好きです。
小さい時から本を読むのが好きだった、というのが大きいと思っています。
そしてもうひとつ、私は今まで、文字化することによって自分の悩みと向き合ってきました。
悩みとの向き合い方って人それぞれだと思うんです。
よく食べてよく寝て、そういう方法で悩みごとを乗り越えるっていう人もいれば、
運動して乗り越えるっていう人もいるだろうし、
友達とおしゃべりして忘れようってする人もいるだろうし、
趣味とか好きなことをして乗り越えるっていう人もいるだろうし。
それと同じで、私は悩みごとがあるときは、「文字にする」という方法で、その悩み事と向き合ってきました。
まずは自分の中にあるものから逃げずに、とことん向き合う。
自分の中のもやもやに「文字」というものを使って輪郭を与える。
それを読んで、今自分はこういうことで悩んでいてこういう気持ちなのだ、と認識する。
そこで初めて、私は悩みから少しだけ解放されるというか、
それをすることによって、自分の中でぐちゃぐちゃとしていたものが整理されて、
「じゃあこれからどうしようか」と考えていくことができるようになるんです。
私はずっとそうやって、悩みごとと向き合って、悩みごとを乗り越えてきました
私なりの、ツイッターの使い方
ツイッターは、その手助けをしてくれる道具、という感覚でした。
自分が、意識するとしないとにかかわらず、ずっと考えていて、ふと思いついたことを140字でまとめて保存する。
あとで見返せるような形にする。
覚えておきたいけどノートとペンを持つのは…という時のノート代わりとして、私はツイッターを使っていました。
あともうひとつ、自分のもやもやの輪郭探し、という役割も、ツイッターは果たしてくれていました。
輪郭を与えたいけど、自分の引き出しの中には適切な言葉がない。
そんな時にほかの人のツイッターを見る。
すると、自分では使わない言葉を使って自分を表現している人たちに出会うことができる。
その中から、自分にピッタリ合う言葉を探す。
私はこうやって、その時々に必要な言葉探しのためにも、ツイッターを使っていました。
まとめると、私は本当に自分本位な理由でツイッターを使っていたわけです。
私の友達には、「俺の行動をみんなに知ってもらいたい、みんなと交流したい」という理由でツイッターを使い日々つぶやいている人もいて、
でも私はそうではありませんでした。
どちらがいい悪いとかではなく、ただ私は違う、ということです。
葛藤
最近のツイッターの使い方
こんな状態になってから、自分の中にある言葉では、今自分の中にあるもやもやに輪郭を与えることができない、ということが増えてきました。
でも、私の中には「自分の今思ってることを言語化しないと前に進めない」という謎のこだわりがありました。
今までそうやって乗り越えてきた、というのもありますが。
私はいつもの通り、ツイッターを開いていろいろな個性のある言葉に触れて、ああでもないこうでもないと、言葉探しをしていました。
ただ、動けないときは本当に動けなくて、そういう時は言葉を探す余裕もなく。
ちょっと調子がいいかも、という時に、ツイッターで言葉探しをしていました。
また、思い浮かんだけど座ってノートを書いたりする余裕はない、という時に、ツイッターに書き込みをしていました。
ぽろっと、誰に向けてとかではなく、本当に自分の思いを吐露するためだけに書き込んでいるような感覚でした。
私なりの言葉の使い方
ちょっと話がまた変わるのですが、私の中では2種類の言葉の使い方があります。
1つは、今まで語ってきたように、自分の思いに形を与えるという使い方。
もうひとつは、他人に自分の思いを伝えるという使い方です。
これは、自分の中では全く違うものです。
前者は、対自分で、いわば自己満足のような形ですが、
後者は、対他人で、自己完結、自分さえよければよい、というわけにはいかないからです。
私は、前者の言葉の使い方には慣れています。
いつもやっていることだからです。
でも、後者の使い方をするのはとても苦手です。
私は対他人になると、途端に言葉が使えなくなってしまうんです。
自分でも、なぜだかよくわかりません。
ツイッターをお休みするという決断
いつも苦手としていることが、こんな状態になってできるはずもなく。
他人と話す、という、一見すると当たり前のように見えることが、
私にとってはとてもハードルの高い課題となってしまいました。
それを乗り越えるだけの気力を振り絞ることができず、だんだんさぼるようになっていってしまいました。
例えば、lineだったりメールだったり、そういうものから逃げてしまうことが増えました。
そして、人と会ったり話したりすることからも逃げるようになっていきました。
ただ、自分へ向けて言葉を投げることは、これまで通りできることもありましたから、それは自分のペースで続けていこうと思っていました。
それに、対自分で言葉を使えなくなることに対する恐怖もありました。
これまで、今まで普通にできたことがどんどんできなくなっていて、それがすごく怖かった。
先週から外に出られなくなった、一昨日からご飯を食べるのが苦痛になった、昨日からあまり眠れていない。
そうやってどんどんできないことが増えていく中で、「自分の中にあるもやもやを文章にする」という、今まで好きだったこと、当たり前に行なっていたことまでできなくなるのは嫌だ。
私はこうやって、自己完結できる言葉遊びの中に閉じこもっていきました。
しかし、この行動によって誤解が生じてしまったり、他人に迷惑をかけることがあるのだということに気づきました。
ツイッターは使えるのに、つぶやけるのに、会話はできない、人とは会えない。
こんなの、ただの甘えなのですから。
私は周りの目が怖くなってしまいました。
周りの目を気にする自分と向き合うのに疲れてしまいました。
なので、ツイッターから離れることにしました。
最後に
実はここに書いてあることは、ある友人にツイッターをやめる、ということを伝えたときに言われたことを自分の中でこねくり回して考えたことです笑。
ただただ、自分で今の自分の気持ちとかを整理するために書きました。
今はとてもすっきりした気持ちで、ツイッターから一回離れよう、と思うことができています。
ツイッターはいったんストップしますが、ブログはひっそりこっそり続けていきます。
自分の思いを吐露する場所として使っていくつもりです。
もしこれからも見ていただけるのであれば、幸いです。
最後まで読んでくれてありがとう。
またね。