国立大AOで入ったら

AOで大学へ入学したら、その後の人生どうなるか?

「それは違う!」が生まれたワケ

今日は10時30分に起きました笑。

久しぶりの快眠だったー。すっきりしてる。

というわけで、今日はタイトルの案件について書く。

今日は短めだじょ(多分)

 この記事を書こうと思ったワケ

今日何の事書こうかなぁと思って探してたんだ、ネタを。

で、友達が最近私が良く使う「それは違う!」っていう言葉に興味を持ってくれてるなって思いだしたのね。

これや!って思った。

それだけです。特に大した意味はない。

「それは違う!の誕生秘話

弁論大会の原稿づくり

時は高校3年生、8月にさかのぼる。

担任から、弁論大会やらない?と声を掛けられた。

というのも、私は高校生の時にフィリピンに行ったんだけど、

そこで感じたこととかもっといろんな人に知ってもらって、途上国支援とかそういうこと考えてもらうきっかけ作りができたらいいなぁ

という話を担任にしたことがあったのね、

それを担任が覚えていたらしくて、

「弁論大会に出たら、君の活動とか考えとか知ってもらう良い機会になると思うよ」って言われたのさ。

AOもあるしオープン模試もあるしどうしよう…って思ってたけど、私は馬鹿だから

「きっと何とかなるさー、それに、途上国支援の在り方について考えるいいきっかけになるさー」

と考え、「やりまーす」と言ってしまった。

そして、原稿を作ることになった。

綺麗ごとにはしたくない

弁論の内容は、自身がフィリピンに行って考えた途上国支援のあるべき姿。

でも、このことをうまく伝えられずに何回も何回も書き直しをしていた。

「私たちにも世界を変えていく力はある!だから、途上国支援なんてできないって思ってるかもしれないけど、それは違くて、私たちにだって何かできるはずなんだから、まずは目の前にある現実を直視することから始めようね!」

一番最初、原稿を書き始めていた時に書いていた内容がこんな感じ。

でも、なんか違う…と思ってた。

きれいごとばかり並べてあるような弁論にする気はさらさらなくて、

折角なら私の本当の考えとか気持ちとかを書きたかった。

私たちには世界を変える力はないから

で、防大の一次試験のお昼休憩の時。

ひらめいちゃったんですよ、私は。

今まで「高校生の私たちでも途上国支援とかできるよね、みんなで興味を持つところから始めよう!」っていうスタンスで文章を書いていたけれど、

それってほんとにそうか?

興味さえ持てば誰でも途上国支援ができるようになるのか?

私がフィリピンに行ったとき、何かそこにいる人たちのためにできたことはあっただろうか?

2週間、配給活動をして、一緒に遊んだり視察をしただけだった。

あ、私全然途上国を支援できてないし、現地で暮らす人のためになることできてない。

って考えたのね。

じゃあ、何もできないからってあきらめるのか?

それ違くない?

何であきらめにゃいかんの?

やだ!あきらめたくない!

で、その思いから書いた文章がこちら。(Googleドキュメントに当時の文書が残ってたのでコピペします。恥ずかしい!)

私が今日最も伝えたいこと、それは「私たちは何もできない」ということである。

高校生の私たちこそ、この視点を身につけるべきだと考える。

なぜか。私自身が現地でそう感じたからだ。

途上国支援?馬鹿言っちゃいけない。

高校生の私たちが、途上国の発展なんて、たいそれたこと、日本でやれるはずがない。

現地に行ったってやれることはなにもなかったのだ。

だからこそ、私たちに必要なのは「もうすでに、途上国のために必要なものはそこにある」という視点だ。

見えないからないものとされている、そこにあるはずの途上国の発展に欠かせないもの。

そこにいる人たちの能力。

より良い生活を送りたいという気概。

あとは私たちが、途上国に対する見方を変えるだけ。

考え方を変えるだけ。それだけでいい。

…途中なんか因果関係おかしいところあるし、気持ちだけが先走っている感じです笑。

で、これを、一緒に原稿を考えてくれていたクラスメイトに見せたら、以下のような文章になって返ってきた。(これも、ドキュメントに残っていたのでコピペします。)

私が伝えたいこと、それは「私たちが世界を変えることなどできない」ということである。

私自身が現地でそう強く感じた。

途上国支援?そうは言っても現地に行ったって何も変えられたことなどなかったのだ。

そして、高校生の私たちこそが、この現実の厳しさを知るべきだ。

資金も、実績も、コネもない。

そんな高校生の私たちが、途上国の発展などと、たいそれたこと、日本でやれるはずがない。

では、私達は本当にただのちっぽけな存在で、本当に何もしなくていいのか?

それは違う!

そんなの、私は悔しくてたまらない!

そんな現実があるからこそ、私たちに必要なのはエンパワメントの視点なのだ。

「もうすでに、途上国の支援を行うために必要なものはそこにある」という視点。

見えないからないものとされている、でもそこにあるはずの途上国の発展に欠かせないもの。

そこにいる人たちの能力。

より良い生活を送りたいという気概。

あとは私たちが、途上国に対する見方を変えるだけ。

考え方を変えるだけ。それだけでいい。

…お判りいただけたでしょうか。

そう、「それは違う!」というフレーズを、そのクラスメイトが気に入っていて、私の過激な文章の中にうまく組み込んでくれたんです。

これが、「それは違う!」の誕生秘話(?)です。

あ、ちなみに最終的に、弁論の内容がどうなったか要約すると、

「みんな途上国で暮らす人はかわいそうとか思って、何かしてあげようとか言うけどそれは違くて、もうそこで暮らす人たちは自分たちで自分たちの暮らしをよくしていく能力を持っているんだから、それに注目して、それをどうしたら発揮できるか考えようよ、それが私たち高校生でもできる国際協力なんじゃないの?」

って感じです。

「それは違う!」に込めた思い・込めたい思い

何も持っていないからこそできることがある

先の弁論大会で、きれいごとになってしまうのは嫌って書いたけど、

「あなたたち何もできることないんだから」っていうことを伝えるだけで、

「結局何もできないんじゃあきらめるしかないか」ってなるのも嫌だった。

何も持ってない、何もできないからこそ、じゃあ何ができる?って考えてほしくて、

そのために現実を直視してほしかった。

で、何もない私たちだからこそできることが、「そこにもうあるものに気づくこと」だって思った。

人は、自分が持っていなくて他人が持っているものを探すのってすごく得意じゃない?

だからさ、その能力を使ってみようよって考えた。

意外とそこに、現状を変えるヒントやパワーが眠ってる気がする。

 

私たちは、本当にちっぽけで、何もできなくて、

何をすればいいかもわからなくて。

でも、何とかしたい、よくしたい、何かしたい、そういう思いは、人一倍強くて。

だからすごくもどかしい。

そんな私たちこそ、「今もうそこにあるもの」に注目すべきなんだ。

私たちの描く『良い』社会と、そこにいる人たちの描く『良い』社会の像が重なって、

私たちの持っているパッションとそこにいる人たちの持っているパッションが重なれば、

私たちが完璧な存在じゃなくても、そこにいる人たちが完璧な存在じゃなくても、

絶対に今より良いものが作れる。

私はそう信じてる。

国際協力以外でも

私は結構、日常生活でもこの言葉を使う。

今でも、この言葉を弁論大会一緒に原稿考えてくれた人と使ったりする。

その時は、本当に冗談っぽく、笑うために使う。

自分自身に向けて、独り言で言ったりもする。

その時は、自分を鼓舞するために使う。

他人に向けても使う。

何かを聞いてて絶対違うって思ったけど、それを冗談っぽく伝えたいときとか。

この言葉を使うと思い出すんだよね。

そうだった、弁論大会で「もう必要なものは目の前にそろってるじゃん」っていうことを訴えるために使った言葉だなって。

無意識にこの言葉が頭に浮かぶときは、

今の自分とは違う視点から自分を分析する自分が、私のためにかけてくれる言葉なのかなとか思ったりもする。

口に出してみるとなんか笑えてくる言葉だから、みんなもぜひ使ってみてほしい。

行き詰った時に、「これは違う!」とかつぶやくと、なんか笑えて来るよ。

肩の力抜けるよ笑。

何が言いたいかよくわからなくなったから今日はこれまで。

 

またね!