教育って何・誰のためのものなの?
事件は今日、午前1時におきた。
今日はここ1週間でいちばんよい日で、
学食で久しぶりにゆっくりご飯が食べれて、
お風呂もゆっくり入れて、
ピアノを弾く時間もあって、
だからプチ贅沢で、蒸気でホットアイマスクでもして寝るかーと思ってた時、
ある人からラインが来た。
久しぶりのラインで「よしゃー!」って思って見たら、以下のようなラインが送られてきていた。
(以下太字でコピペします。のちのち私の意見を述べるとき使いたいので、勝手に引用させてもらうよ。)
「今あるものをもっとよくする」という考えが「今あるものはダメだから変える」にシフトしていることに恐怖を感じる。原点に戻ってほしい。今あるものを否定しなければ成り立たないものに、一体どれだけの価値があるのだろう。本当に価値あるものは、比較対象なしに価値を主張できるものじゃないのか。
↑について、自分はそう思わない。
「今あるものはダメだから変える」ってのは、まさに問題意識そのものでは?
まず「今あるものをもっとよくする」ってのは、問題解決的には3パターンあると思う。
①現状に新しい事実を加え、現状の「良い」と評価できる部分を増やす
②なにか仕掛けることによって、既存の事実をアップグレードする
③なにか仕掛けることによって、既存の「悪い」と評価できる部分を無くす(変える)
とくにこの③は、今あるものをもっとよくしてるけど、「ダメだから」って意識にもとづいた解決策だと思われる。「ダメだから変える」って、自然な考え方で必要な意識でもあるんじゃないかな。
「良い」「悪い」って何?って思ったかもしれない。それを考えるのには、まず問題って一体なんなのかって話をする必要がある。まず、端的に言うと「問題=悪い現状」って感じ。そんで、その「悪い」ってのは、特定の価値観の上に成り立ってる。
「〜が良いよね」って価値観があったとすると、その価値観に反するような現状は「悪い現状」といえて、それが問題だといえる。つまり、問題は相対的なものであって絶対的な問題は存在しない。
現状を自分(たち)の価値観と比較した上で、問題とみなすかみなさないかを決定してるはずだ、っていうことを言いたい。もっと言えば、「問題を発見する(認識する)」=「無意識的であれ、価値観と照らし合わせると現状が悪いと感じる」ってこと。それを踏まえると、「もっとよくする」なのか「ダメだから変える」なのかってのは本質的には同じ。個人的な意見だけど、その微妙な意識の違いって、ポジティブな人かネガティブな人かってくらいの違いしかないんじゃないかな。
れいなのツイートで「価値」ってのをどういう意味で言ってるのかは知らないけど、何かを変えるとか何かを良くするとかってまさに問題解決で、その文脈で考えるんだったら、価値って比較の上でしか成り立たないと思う。
…夜中の1時に議論する内容ではない。少なくとも。
というわけで、今回は私がこのツイートで何を伝えたかったのかを、この上の文章を踏まえて書く。今から笑。
このツイートをしようと思った経緯
私が前、とある人と話した時に、「自分は全国に〇〇という教育システムを取り入れたい!教育を変えたい!」といわれた。
面白いなぁとは思ったけど、同時に無理だろうとも思った。
そして、怖い、と思った。
それは、その人の目がまっすぐすぎたから。
その目に何が映ってるんだ?と思った。
確かに、その教育制度を大々的に導入することはとても画期的だし、挑戦する価値のあることだという意見も納得できる。
でも、その教育システムにマッチしない人はどうなるのだろう?
現在の教育方法(暗記型の授業とかなんとか)でもついていくのがやっとの人が、その人の主張する教育システムで救済されるとはとても思えなかった。
そもそも。
私は、教育の役割というのはその人の持つ可能性を最大限に伸ばすことだと考えてる。
たとえこれからどんな時代になろうと、ないがしろにされていい人なんか一人もいないでしょう。
んー、例えばね、今は大学受験の合否って点数で決められるじゃない?
でもこれからは少しずつ、言われたことを丸暗記して点数を取る、っていう能力よりも、得た知識を使い自分なりの答えを出す能力が求められるようになっていく(と私は認識している)。
じゃあそんな時、暗記は得意だけどその知識を活用するのが苦手、という人が、大学進学をあきらめなければならない状況があっていいのか?
ということ。(極論かもしれないが)
それは違う!(と私は思う)
寧ろ教育は、そういう、社会から見捨てられそうになっている生徒を救うためにあるものだと思う。
じゃあどうやって救うのか、その方法は、
「その人がもっている欠点を、何か別の長所で補っていくすべを身につけさせる」
だと私は思う。
先ほどの例でいえば、その生徒の得意とする何かを生かして、社会から見たら欠点である「知識を活用する能力の欠如」という部分をカバーできるようにする、その方法を身に付ける過程を補助するのが、教育の役割なのではないか、ということが言いたい。
つまり私は、教育は、「時代の流れにあった人を探すために、生徒をふるいにかけるようなシステム」であるべきではないと考えている。
寧ろ、
社会によってふるいにかけられても何とか残っていけるように手助けする、
それこそが教育の役目だと思っている。
だから、その人が、その「ふるいのような役割をする教育システム」を推し進めていこうとする様子をみて、怖くなった。
それで、先のようなツイートをした。
line送ってきてくれた人が考えてること
私はある程度この人と話したことがあって、
この人が問題解決ってものをどのようにとらえているのかということも以前説明してもらっているので、
すべては理解できてないけど、ある程度は理解してるつもり。
でも皆はこの人の考えに触れるのはおそらく初めてだと思う。
なので、少しだけ私なりにかみ砕いて説明した後に、その人が私のツイートのどこに引っかかったのか、ということを書くことにする。
世の中に問題は存在しない
彼のスタンスは、「問題はこの世に存在しない」。
どういうこと?ってなるよね。
まず前提に、
「問題は、目の前にある事実と、私たちがそれぞれ持ってる価値観によって生じる」
というのがある。これテストに出るから覚えておいて。
例えば、めっちゃ暑くて蒸し暑い部屋に閉じ込められてるっていう状況があったとする。これは、事実。
で、大体の人は、「熱いの嫌!湿気もいや!快適に過ごしたい!」っていう価値観を持ってる。
こうやって、価値観と反する事実がやってきたとき、私たちはそれを問題だと認識する。
「蒸し暑いの嫌なのに、なんで蒸し暑いんだよ!なんとかできんのかい!」ってなる。
これが、問題が生じるプロセス。
私のツイートのダメなところ
多分彼は、私のツイートの中でもここに一番引っかかってるんだと私は考えている。
「今あるものをもっとよくする」という考えが「今あるものはダメだから変える」にシフトしていることに恐怖を感じる。
なぜか。わかる人ー(おそらくほぼいないだろう)
えっとですね、大雑把にまとめると、こう。
「どっちの考えも、目の前にある事実と自分の価値観を照らし合わせて問題点を見つけているのに変わりないじゃん!別にシフトしてないじゃん!」
…うん、説明するね。
今あるものをもっとよくする、というのは、
目の前にある事実と自分の価値観を照らし合わせて、違うけど、その中に良いものも含まれているであろう、だから、その問題を解決すれば「もっといいものになるはず!」と考えている、ということ。
逆に、今あるものは駄目だから変える、というのは、
目の前にある事実と自分の価値観を照らし合わせて、違うし、その中に良いものは含まれていない、だから、その問題を解決すれば「単純によいものになる」と考えている、ということ。
つまり、どっちの思考も、「事実×自分の価値観=問題」というのは変わっていなくて、
ただ現状に良い面を見出せているか否かの違いだろう、というのが彼の主張(の私なりの解釈)
ツイートの意図
とりあえず、彼の主張を踏まえたうえで、じゃあ私が何を伝えたかったか?ということを書く。
上でも書いたように、私がこのツイートを通して伝えたかったのは、
「あなたが『生徒のためになる』と信じて疑わないものは、本当に生徒のためになっているのか?」ということ。
全然ちゃうやん!って思った人、ごめんなさい。
私は日本語を操るのがど下手なので、その練習もかねて意見を発信しているところもありーの、なのです。許してくれ。
「今あるものをもっとよくする」という考えが「今あるものはダメだから変える」にシフトしていることに恐怖を感じる。原点に戻ってほしい。今あるものを否定しなければ成り立たないものに、一体どれだけの価値があるのだろう。本当に価値あるものは、比較対象なしに価値を主張できるものじゃないのか。
これがもとのツイート(多分)なんだけど、それを一文ずつ解読すると、こうなる。
- 「今あるものをもっとよくする」という考えが「今あるものはダメだから変える」にシフトしていることに恐怖を感じる。
これは、「今の授業形態にもいいところはあって、でも悪いところもあるからそこを改善しよう!」っていう思考じゃなくて、
「今の教育にいいところなんて全くない、すべて悪、よって変えねばならない」って思ってるのって、少し違くない?ってことを言いたかった。
というのは、別に問題意識の持ち方が悪い、とかじゃなくて、
今あるものはすべて間違っている、私の理想が必ず正しいという、
その盲目具合に対して、「それは違うんじゃない?」って言いたかった。
- 原点に戻ってほしい。
ここでいう原点っていうのは、「教育はそれを提供する側ではなく提供される側のためにあるもの」という視点のことを指してる。
ついつい私たちは、自分が教育を受けて思ったことや感じたことをもとに、教育というものを定義づけて、
それを自分の都合のいいように変えて理想として掲げて、
で、教職課程とかで学んだ知識をくっつけてより強固な理想として、子供たちや大人に押し付けてしまいがち。
でもそれは違くない?
それって、自分がされて嫌だったことをまた生徒にしてるってことだよね?
だから、「教育は何のために提供され、誰がそれを受け取るのか」という根本をもう一度考え直してほしいな、認識してほしいな、ということだった。
- 今あるものを否定しなければ成り立たないものに、一体どれだけの価値があるのだろう。本当に価値あるものは、比較対象なしに価値を主張できるものじゃないのか。
これはもうほぼ意地で書いた文章笑
もしその教育制度が本当に万人に受け入れられるものなのだとしたら、ニーズに合っているのだとしたら、もうとっくの昔に全国に導入されているのでは?
そもそも、今の制度と比較しなければその制度の良さを伝えることができないのなら、その制度ってそんないいものじゃないんじゃね?っていう、ただの純粋な疑問だった。無視してくれい。
これで、少しはツイートで言いたかったことが見えてきたのでは?
最後に
教育はあなたの理想を子供に押し付ける手段じゃない。
学校は、あなたの理想を実現させるための場所じゃない。
あなたの理想が、子供たちに、保護者に、社会に本当に必要とされているかはわからない。
だから、そうやって偏った部分だけを見て教育というものをとらえ、エリート養成思考になっていくのはよろしくないのではないか。
そう伝えたかった。
そういいつつ、「すべての生徒が社会に出てもやっていくすべを身に付けるための教育を」とか言っている時点で、私もその人と同類なのよね。
それでも、「自分の理想は正しい!」と思って突っ走るのと、
突っ走りながらも「これでいいのか」と考えるのでは違うし、
私は後者でいようって思ってるし、
それが大切なんじゃないかなって自分に言い聞かせてる。
とにかく、私はこのツイートで、以下のことを伝えたかった。
- 教育は、全員が社会に出たとき自立できるようにするための方法・術を提供するためにある
- 教育は、特定のエリートを選抜するためでなく、すべての生徒がそれぞれの幸せを社会に出てから実現するためにある
- 教育に携わる者は、自分の理想がそれを受ける人々のニーズに応えているものか、という視点を常に持ち、自分に問い続けなければならない
- これらのことを忘れ、自分の教育の理想の形が絶対だと信じ、それを他人に押し付けようとしている姿勢に嫌悪感を覚えた
わかっていただけたでしょうか。
追伸、lineをを私に送ってくれた人へ笑
こんな書き方になってしまったことを、まず謝りたい。ごめんよ笑。
言い訳をするなら、「それは違う」っていう、かの名言を入れたかったのと、
タイミングの悪さにちょっと気が立ってしまったということ笑。
でも君の意見には本当に毎回気づかされることばっかだし、
私が君と議論するの(というかいつも一方的に凹されてるけど)大好きだから、
これからも定期的に、ほどほどに手加減しつつ、ぼこしてほしいです。
よろしく。
あ、このブログの考察は5000字のレポートにして今日の夜9:00までにラインで提出してくださいね~。
(所要時間2時間、文字数5400文字ちょいオーバー)