今の学部に入った理由
昨日公開した気になっていた記事。
今日ある方とお話しして、その内容を書きたい気持ちでいっぱいなのですが、
最近いろんな人とお話しするときに「なぜ今の学部なんですかー?」と聞かれることが多いんですよね。だからそれについて書こうかなぁ、と思う。
私がどうして、教師になりたいと思っていたのに、文理融合学部に入学したか。
私の根底にある何かが伝わったらいいなぁ。うん。
私の原点
以前ブログにも書いたけど、私が教育に興味を持ったのは、小学2年生の時。
当時の担任の先生がかっこよかったから。
そこからずっと教育学部に行きたかった。
といってもその時は地元の教育大学に行きたいと思ってた。
私の地元では、公立の学校で働くならそこの大学でしょ、っていうくらいの大きな派閥を形成している。
この時は迷いなんてなくて、ただ自分が誰かに教えてそれで誰かを笑顔にして、そんな笑顔をもっと見たいっていう純粋な気持ちだった。
ここに実はめちゃほほえましいエピソードがあって笑
当時好きだった人が、隣の席で数学が解けなくて悩んでて、教えてあげたときに
「ありがとう!」って言ってくれたのね笑
それがすごくれしかったっていう。単純でしょう?
一つ目の転機
そこからずっとぼんやーり、教師になりたい、笑顔を見たいと思って勉強してた。
次に夢が明確になったのは、中学三年生の春。
理科の先生がなくなった時。
今でも思い出すと、叫びたくなってしまうくらい、本当に私の中で大きなこと。
出会い
その先生の第一印象は、「怖すぎて無理」だった。
私は私立の中高一貫だったので中学受験をした。
その学校の体験会で初めてその先生と出会った。
その時は、ちょうど何班かに分かれて実験をしていたのだけれど、
ある班がふざけてたんだよね。
その時白衣を着た先生が急に「ふざけているんじゃない!」って怒鳴ったのね笑。
だから、「怖いーーーー!!!!!」っていうのが、今でも覚えている第一印象。
入学後
無事入学してから、初めての授業を迎えるまでずっと願ってたことは、
「絶対あの先生になりませんように!」だった笑。
その願いもむなしく、その先生が私たちの理科を担当してくださることになって。
最初の授業の、学校の周りに生えている花のスケッチを頑張って書いて提出したら、
「お絵描きではないので一本の線で描いてください」
とコメントを書かれた。緑のボールペンで。
内心、「めっちゃうまくかけたのに!!!!」っておもってた笑。
で、その1週間後ぐらいに、植物の気孔の観察の授業があって、
先生が「授業が終わってからも理科室は開放しているからいつでも来なさい」といったのを真に受けて、いろんな植物の葉っぱをちぎって一人で理科室へ行ったら、
すごく笑顔で迎えてくれて、顕微鏡まで用意してくれた。
ずっとひとりで気孔を見ながらニヤニヤしてたら、先生が準備室から出てきて、
「腹が減っては戦はできぬから、アンパンでも食べなさい」とか言ってきて、
アンパンを食べながら先生と話した。
その時、優しいから厳しい人なんだろうな、と思った。
「出世払いで」
先生のことを思い出すとき、いつもセットで思い出すことがあって、それは中学2年生の自由研究でのこと。
授業の中でアサリが砂に潜るところを観察したり、アサリを解剖する授業があったのだけれど、私の班は全然思うような結果が出なかった。
その時、自由研究でアサリを飼おう!って思った。なぜか笑。
でも、アサリを飼うためのビーカーがない。
だから、アサリを飼いたいからビーカーを貸していただけませんかって頼みに行ったのね。
そしたら、めちゃ真剣に私の話を聞いた後に、「では、3つの条件下で育ててみなさい。3つビーカーを貸してあげるから」って言ってくれた。
で、絶対割るなよって言われた(今考えれば完全にフラグ)
で、実験が終わって、ビーカー洗って、新聞紙に包んで、さああとは持っていくだけ!ってなって、玄関にポンっておいた瞬間に、
「がしゃっ」
っていう音がした。アウト。
2つもビーカーを割ってしまった。
やばい!!!!!
相手はあの先生や!!!!!
授業中に試験管割ってる人がいたときどっ怒鳴ってたあの先生や!!!!
泣きそうになりながら、でも何とかしようと思って、割れたビーカーと少しのお金を持って誤りに行きました。
その時かけてくれた言葉が、「出世払いで」だった。
それどころか、いい実験はできたかって聞いてくれた。
で、賞までくれた。
もう涙が出そうだった。
その時、こんな先生になれたらいいのにって思った。
もうあの授業は受けられない
そんなこんなで3年生の春。
先生がある日突然学校に来なくなった。
1週間目、全校集会が開かれた。
そこで、先生はもういないのだと聞かされた。
最初は「は?」みたいな感じだった。
それから泣いた。たくさん泣いた。
その日の理科の授業は、別の先生が来た。
その先生に、あるクラスメイトが、「今までの授業形式で授業を進めてもらえませんか」といった。
というのは、私たちは、とある珍しい授業形式で先生に教えてもらっていたから。
その臨時できた先生は「いいよー」と言ってくれた。
その日は私たちだけでなんとかその形式の授業をした。
次の理科の授業では、また別の臨時の先生がやってきた。
また先と同じクラスメイトが、同じ言葉をその臨時の先生に投げかけた。
その時その先生は言った。
「僕は、あいつと仲が良くて、あいつの理想も知ってて、共感もしてる。でも僕にはあの授業はできない」
そして、いつものあの、先生が話して私たちはノートをとる、っていう授業に戻った。
その時初めて、ああ先生はもういないんだって実感した。
あの授業はもう受けられないのだと。
悔しかった。
悲しかった。
そこから、先生の理想ってじゃあ何だったんだろうっておもって、たくさん調べた。
そして、ある一つの授業形態にたどり着いた。
その授業形態の理念は、「一人も見捨てないこと」
ある課題を、全員達成すること。
それは、徳ではなく得なのだということ。
先生は、授業を通して私たちにそれを伝えようとしていた。
だから私は振り返ってみた。そして気づいた。
私は、その理想と程遠い人間だってこと。
自分の与えられた課題をこなして、あとは澄まして座っていた。
誰かの「わからない」が「わかる」に変わった時の笑顔が見たいとか言っていたのに。
その時思った。
先生は、私のせいで理想を実現できずにこの世を去ってしまった。
私は、その理想を実現させなければならない。
そして、先生の母校、某H大学(今私が通っている大学ですね笑)の教育学部に進学すると誓った。
この時もまだ、迷いはない。
ただ心の底から、先生と同じ大学で学べば、先生がどうしてその理想を掲げたのかわかるのだと信じていた。
私は狂ったように、理科教師になることだけを考えていた。
二つ目の転機
そうやって理科教師になるために教育学部を目指すことを決めた私は、理系に進み、生物を選択した。
その生物の先生との会話が、私の2つ目の転機。
私はもともとその先生のことが好きじゃなかった。
口癖は、「そんなこともわからないのぉ~?」だった笑
今思えば、なんていうか、馬鹿にしたような感じとかではなくて、ただの口癖だったんだろうけど、当時の私はすごく反発していた。
その先生のことを好きになったのは、文理選択の時。
理科教師になりたいけど数学や化学が苦手で…といった私の悩みを真剣に聞いてくれて、すごく気にかけてくれた。
その時、ああ本当にいい先生なんだなと思った。
この先生に、生物を教えてもらいたい、この先生からもっと学びたいと思った。
そして、高校二年生の時、生物を教えてもらった。
生物だけじゃない。
フィリピンの学校で理科実験したいっていったら、土曜日を使って模擬実験に付き合ってくれた。
理科の実験は、企画が一番大変なのよって言いながら、すごくノリノリで手伝ってくれた。
結局フィリピンでは、万華鏡を生徒と一緒に作った。
自分でいうのもなんだけど、オオウケだった。
帰国後先生にその話をしたら、「それはあなたが頑張ったからだ」と言ってくれた。
うれしかった。
それとは別に、先生はいつも「失敗してもよいからとにかく挑戦しなさい」と言っていた。
失敗したくないと思って挑戦しないで、そうやって守ろうとしている自分に一体どれだけの価値があるのか?
その先にあるのは、平行線のままの自分で、
だったら失敗したっていいから挑戦して、何かを得ようよ。
最適解じゃなくたっていい。最適解の近似を探すために行動すればいい。
前のめりに倒れて、また起き上がればいいと。
「絶対に先生の母校に行って先生の理想をかなえなければならない」という考えにとらわれて息苦しかった私は、先生のこの言葉で少しだけ変わることができた。
やりたいことをやってみよう、どん欲に、自分のやりたいことをやりたいって言ってもいいんだと思えるようになった。
そして高校3年生になる前、先生は転勤してしまった。
「どうして私が、もっと一緒にいていろんなことを教えてほしいと願ったら、その人はいなくなってしまうんだろう」と本気で思った。
折角やっと信頼できる先生にまた出会えたのにって。
で、その先生に最後の進路相談をしたときに言われたひとことが、私の進路を少しだけ変えた。
それは、「教師になるなら理科を極めなさい」という言葉。
誰かに教えるというのは、生半可な知識や覚悟ではできるものではない。
本物に触れて、たくさんのことを学んでから教壇に立ちなさいと。
私はその言葉を聞いて、教育学部ではなく理学部の受験を決める。
これが私の2度目の転機。
この時もあまり悩みはなかったな。じゃあ理学部にしよう、って感じ。
三度目の転機、本当にこのままでいいのか
そして3年生になって、理学部の受験勉強を開始。
順調に勉強していけば多分だ丈夫だろう、となっていた。
そして迎えたオープンキャンパス。
ずっと夢にまで見た理学部の研究室。
ショウジョウバエがたくさんいて、見たことない器具がいっぱい置いてあって、本当に実験漬けの日々が送れるのだろうとワクワクした。
そして思ったのは、「何か違う」だった。
私が本当にやりたいことってなんだったっけ。
誰かを笑顔にすること。その笑顔を見ること。
1人も見捨てない、という理想を実現させること。
じゃあ私は本当に、一生を理科・生物に捧げていけるのだろうか?
人生をかけて教職を全うできるのだろうか?
多分、何か違う、の中には、やっていけるのだろうか、という不安や恐怖も入って
そんな時、今の文理融合型学部に出会った。
教員免許も取れて、自分の興味のある途上国に関する勉強もできる。
それに、2年生になるまでどの分野に力を入れるか悩むことができる。
すごく悩んだ私は、行きたいと思っている大学院の教授にメールを送る(今考えれば非常にぶっとんでいる)
「私は理学部に行くべきか、文理融合学部に行くべきか」という内容で。
教授は返信してくれた。(優しすぎる!)
そこには、文理融合学部へ進むのをお勧めする、と書いてあった。
逃げの気持ちだったかもしれない。
それでも、教授の言葉に背中を押され、文理融合型学部へ進路を変更した。
そしてAO入試を受験して、この学部に入学することが決まった。
後悔をしていないのかということ
中学三年生の時、泣きながら「絶対理科教師になる」と思ったことも、
高校二年生の時、泣きながら「理科を極めてやる」と思ったことも、
忘れていないし、その思いは今も多分私の中心にある。
「一人も見捨てないという理想を実現できる理科教師になる」という理想を叶えるなら、確実に教育学部や理学部へ行くのが良いのだろうと理解もしている。
それでも私は、今の学部に入ったことを後悔していない。
というより、絶対したくない。
何かを選択するということは、二つ以上の選択肢が手の中にあったということ。
そして、選択したということは、「つかみとれたかもしれなかった未来を捨てた」ということ。
だから私は、その捨ててきた選択肢を選んでいたかもしれない自分に、
「あのとき私はこの選択肢を選んでよかったわ、だってその選択肢を選んだあなたより、絶対にいい人生を送ることができてるっていう自信があるもの」
って胸を張れるようにしなければいけない、それは義務だと思う。
だから私は、今の理想を叶えるために全力で走る。
だから、今の学部に入るという決断に対する後悔は、絶対にしない。
変わり続ける理想と変わり続ける私
最後にもう一つ、あれだけ先生の理想をかなえるとか豪語していたのに、それはもう忘れてしまったのかよ、ということ。
忘れてはいない。絶対に。
小学生の時の「困ってる人を笑顔にしたい、その笑顔が見たい!」っていう純粋な気持ちがあったからこそ、
「一人も見捨てない」という理想に強く惹かれた。
そしてその理想にひかれていたからこそ、今の私がある。
その理想が、途上国で夢をかなえたいと心から願っている人に手を差し伸べたいという思いにつながってる。
理想が変わったんじゃない。
私が成長するたびに、見える世界がちょっとずつ広くなって、
それで少しずつ理想を叶える方法が変わっているだけ。
変わらないということは、私は立ち止まったままってこと。
それだけは絶対にいけない。
迷うことは、何かを天秤にかけること。
決断することは、何かを捨て選び取ること。
進んでいくことは、理想の形が変わったように見えること。
でもそれは悪いことでも何でもない。
すぐ夢が変わって、覚悟が弱いんじゃないかとかいう人がいたら、私はそうやっていい返すよ。言い返せるような生き方をするよ。
根底にある、「一人も見捨てない」「困っている人の笑顔を見たい」っていう思いを見失わない限り、間違った決断はしない。
後悔をすることもない。絶対に。
結局何が言いたいかって?
こういう過去を背負って、私はこれからも頑張るよってことだ!
またね!
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