風雅池田の(?)ミロのヴィーナス談義
今日は本人たっての希望で(?)、こんな文章を書きます。
「ミロのビーナスは片腕がないから美しいのよ」
と、風雅池田くんに言われました。
彼は同じ学部の、だいぶ個性的な友達。
私のちっちゃな悩み事からおっきな悩みごとまで何でも聞いてくれる人。
最近、一個ピースがはまっていない感覚がすると、それに気を取られてすべて崩れていってしまう。
手袋を家に忘れただとか、そういう些細なミスのときもあれば、
寒いだとか、ちょっと曇ってきただとか、そんなどうにもならないようなことまで。
それで、ちっちゃなことに気を取られていた時に大きな失敗をしてしまい、私がはぶてていたとき(すねる、という意味らしい)に言われた言葉。
なんでも、
「ミロのビーナスというのは完全体だと味がなく、
かけてるからこそ無限の可能性があって(見る人によって見方が変わるから)
だから欠けていなければならない」
「多少かけてることがプラスに働くことも少なからずあるものよ」
なのだそう。
ちなみに、これらは実際に送られてきた文章。
なんともまあ、説得力のあるような、無いような。
よくわかんないよーというと、原文(と思わしき文章)のURLを送ってくれた。
こういうところ親切。
文章は、清岡卓行さんの「手の変幻」というもの。
要約すると、
「ミロのヴィーナスは腕がないからこそ美しいんだぁ!」
という。
ごめんなさい。端折りすぎてる。
私は初めて知ったのですが、ミロのヴィーナスの腕って、途中で失われたんですね。
清岡さんはそれを、ものすごく肯定的にとらえています。
ミロのヴィーナスは腕がないからこそ、普遍的な美しさを表現することができる芸術作品になったのだと。
ここで、文章の中で一番私が好きだった個所を紹介したい。
以下抜粋。
「一方にあるのは、おびただしい夢をはらんでいる無であり、もう一方にあるものは、たとえそれがどんなにすばらしいものであろうとも、限定されてあるところのなんらかの有である」
この文章の最初に出てくる「一方」というのは、腕のないミロのヴィーナスさんのことで、「もう一方」というのは、腕のあるミロのヴィーナスさんのこと。
腕がないということは、こんな腕かなあんな腕かもな、という無限の夢を持っているということであり、
逆に腕があるということは、そういう腕しかありえないということでもある、
という意味。
「私」というものがもし今完璧な形でここに存在しているのだとしたら、
きっと「ほう、すごいな」と、それ以上でもそれ以下でもなく、ただそこに存在しているだけになってしまうというか。
私に欠けている部分があって、そこをみんなに認識してもらってはじめて、そこが個性となる。
「あの人はこういう人だよね」の「こういう人」の部分が生まれてくる。
そして、そこが愛される部分になるんじゃないかなと。
というか、人はそういう、足りない部分に惹かれていくものなのだと思っていて、
足りない部分を補うために努力しているその姿に恋をするのだと思っていて、
これは私の勝手な考えなのですがね。
欠けた部分に入るものは、無数に存在する。
もしかしたらそこに、「これが入っていたらよかったのになぁ」と自分が想像しているものより、もっとすっばらしいものが入るかもしれない。
あくまで上の文章は、無い腕のパターンが無数に存在するという意味であって、
現実、私のかけてる部分には何も入らないことの方が圧倒的に多いのだけれども。
たとえそうだとしても、その欠けた部分を愛してくれる人がいるはず、多分。
私も明日から、いや今日からミロのヴィーナスになるぞ。
自分の中にある空白の部分を愛してもらえるような人間になるんだい。
そして何より、欠けてる部分を自分から愛していけるような人間になりたいなぁ。
あ、興味のある人向けにURLを。
https://ameblo.jp/sougoukokugojuku/entry-12030285650.html
そしてそして、最後に余談。
この話をした後に、風雅池田君が言った言葉。
「これはもう、ブログ行き確定じゃね?」
ちゃんと書きましたよ。
どうでしょうか。
私は、久しぶりに私らしさ全開の文章が書けた気がするので満足です。
うまくまとまりのない、感情論全開の文章ね。
またね!