差別と区別
高校の先生に、「僕は差別はしないが区別はする」と断言されたことをふと思い出した。
確かあれは、AOの小論文を添削してもらっていたときのことだった。
どうして僕が君のAOの対策を手伝っているかわかるか、と言われた。
私は、わからない、と答えた。
先生は、こう続けた。
自分は差別はしないが区別はする。
例えば、受験直前の時間のない時に、2人の生徒が同時に英作文の添削を頼んできたとする。
自分は、その生徒の今までの努力量をもとに添削の順番を決める。
もともと持っている能力で生徒を「差別」し扱いを決めるのではなく、
生徒の日頃の頑張りをもって「区別」をする。
これは当たり前のことだと思う。
どうして君のAOの対策を手伝っているか。
それは、あなたの担任が、「ずっと広島大学を目指していたんです、どうか力を貸してやってください」と頭を下げてくれているからだ。
6年君の担任をしてずっと君のことを見ていた人にそう言わせるということは、君はものすごい執念で努力をしてきたのだと思う。
だから自分も力を貸したいと思った。
先生の話はストンと私の中に入ってきた。
見ている人は見ているのだ、自分の今までしてきたことは間違っていなかったのだと思えた。
自分が積み上げてきたもの、その時現在進行形で積み上げているものに対しても自信が持てた。
そして今この言葉を思い出し、差別と区別の違いについて考えている。
思うに、差別と区別の違いは、差の扱い方に現れるのではないか。
差別も区別も、2つ以上のものの間にある差をもとに物を扱うという行為のことを指す。
ただ、その扱い方に差があるのだ。
例えば、ある会社にいる同期の男女についてみてみる。
男性は昇進を繰り返す傍らで、女性には昇進の気配が感じられないとする。
これが、単なる能力差なら、それは差別ではなく区別だ。
能力によって、できる人とそうでない人に分けられ、できる人が高い地位につきより重要な仕事を任される。
これは道理にかなったものだ。
だがもし仮に「男性だから」という理由で地位が決められていたとしたら。
それは差別だ。
まあ、そんな簡単な問題ではないのかもしれないが。
このように、差別と区別の違いは、差によっておこる現象の部分にある。
「差別」と「区別」を区別することが大事なのだ、要は。
ややこしい。
一番最初に、差別はしないが区別はするということを「ふと」思い出したといったが、あれは嘘だ。
友達に「学問のすすめっていう本を買ったんだよね~」という話をしたときに言われたひとことがきっかけである。
「福沢諭吉って、天は人の上に人を創らずとか言いながらめっちゃ差別主義者だったらしいよ。」
この言葉が正しいか否か、それは本を読んで吟味してみるつもりだ。
ん~、なんかいろいろ問題点の多そうな文章になった気がするなぁ。
ま、いっか。
またね。