悪意ある文章はマントルで燃やそう
いつも何でもへらへらと笑い飛ばしてしまう友達が、珍しく真剣に地団太を踏んでいた。
うろたえていた時、ハンバートハンバートさんの「虎」を爆音で聞きたいからヘッドフォンを貸してほしい、と言われた。
Humbert Humbert - Tora [Official Music Video]
音漏れするくらいの爆音で聞いているのにさらにイヤホンを手で押し付け、うつむきながら音楽を聴く友達の隣で、
何もできずただ座っていることしかできない自分が情けなくてみじめでちっぽけで。
というのはあくまで導入というか、これから書くことの伏線。
最近言葉によって傷ついて、言葉によって救われている。
悪意のない「がんばって」を聞いて
「頑張れない私に存在価値などあるのだろうか」と落ち込むこともあれば、
大した根拠のない「大丈夫だよ」の一言を聞くだけで、その日の夜はぐっすり眠れたりする。
せっかく言葉を使うのなら、大事な人を優しく包み込めるような、傷ついてひっそり涙を流している人の心にそっと入り込めるような、そんな言葉を使いたい。
でもそれはなかなかむつかしい。
必ずしも論理的でわかりやすい文章が、人の心に響いたり人を動かしたり、人を救ったりするわけではない。
かといって難解な文章が人に寄り添ってくれるものかと言われればそうでもない。
美しい文章を書くのはむつかしいのに、人を傷つける文章を書くのはどうして簡単なのか、とも思う。
あたりを見渡せば、敵意が前面に押し出された文章や、悪意に満ち満ち溢れている文章があふれていて、
少しでも油断したらそれらによって私たちはすぐ傷つけられてしまう。
先の友達もその一人で、とげのある文章に閉口して、気分を害されていた。
でも、だからと言って、
傷つくことや傷つけることを恐れてありきたりな、中身のない言葉だけで自分の思っていることを相手に伝えるのは違う、気がする。
相手を傷つけることを恐れず、
(というのは、もちろん汚い低俗な言葉を使っていいというわけではなく、)
自分の思ったことを伝えたとき相手がどう思うのか、ということを熟考した上で、それでも言葉を発しようと勇気を出して、
その言葉を発した後に相手から返ってくる反応によって自分も傷つくかもしれない、という恐怖を乗り越えて、
そうやって出てきた本音にこそ価値がある。
そうやってぽろっと出てきた言葉が美しい。
そして、そのぽろっと出てきた言葉はその人のすべてを表す。
私たちは、新しい言葉を使うことはできない。
言葉を選ぶことしかできない。
言い換えれば、私たちはこれまで周りからかけられてきた言葉や、自分から進んで吸収した言葉の中から「これが一番良い」というものを選ぶことしかできない、ということ。
その人の話す言葉は、その人の「今まで」を表す。
だから、言葉によって傷つけられたら、その原因は2つ考えられる。
受け取る側がその言葉の意味を捻じ曲げて解釈してしまっている。
または、発する側の言葉の選択が十分ではなかった。
先の友達に伝えたいが、あなたの場合は決して前者ではない。
悪意ある文章など、マントルで燃やしてしまえ。
安心して、心ゆくまで地団太を踏んでほしい。
何が言いたいかよくわからなくなってきた。
そう、結論何が言いたいかって、
ハンバートハンバートさんの音楽は最高。
またね。