想像と経験と、でも結局想像。
「きっとこうだろうな」って想像するのと、「こうなんだ」って経験すること。
人は経験しないと何もわからないのに、結局大事なことは想像するしかないんだってこと。
考えたことをそのまま書いておく。
自分が4月になってから今まで経験してきたことは、私が高校生の時、何なら中学3年生の時、この大学に絶対行く!って誓った日から、「きっと大学生活ってこんなだろうなぁ」と想像してたものと全く違った。
例えば授業に関していえば、相変わらず講義形式のものばっかだし。
自分の好きなことばっかできると思ってたけど、そうでもない。
高校の時ずっと使ってて大事にしてた、実家から持ってきたものは、使う気配はなくて、ずっと引き出しにしまってある。
1人暮らしになったら一人の時間がいっぱいで干渉されなくていいな、と思ってたけど実際1人暮らしすると実家が恋しくなったりする。
あんだけ喧嘩してて「お前なんか早く家出てって1人暮らししろ!」とか啖呵切ってた妹が、私からの連絡がなくて機嫌が悪くなってるらしいし(笑)
もう使うことはないと思っていた、高校の同級生5人組のライングループは今でも動いてる。
友達がたくさんできると思っていたけどそうでもない。
それなのに意外と学部をまたいだ友達ができるし。
自炊しないと思ってたけど結構自炊するから調味料がどんどん増える。
節約しようと思っていたけど週1回ハーゲンダッツ食べるし。
多分、入学前の自分に今の自分の生活を見せても、信じられなかったと思う。
そのくらい、私のいわゆる「大学生活」に関する想像は、現実とかけ離れていた。
まあそれが、私の想像力の欠如によるものなのか、私がこの4か月で堕落したのかはわからないけれど。
「こんなふうだろうな」って想像するのと、「こんななんだ」って経験するのは全然違う。
でも、経験したからと言って、すべてのことが知れるわけでもない。
同じ経験をしたって、目の前に同じものがあったって、隣にいる人は絶対違うことを感じて、きっと私はそれを理解できない。
たとえ相手がどれだけそれを的確に言語化したところで、「心の底からわかる」にはならない。
「こんなふうに感じているんだろうな」と、また、想像の域に戻ってしまう。
うん。
必死に言葉を紡いで形を与えても、相手のもとに届くまでにその形の外縁、輪郭はうっすらとしたものになってしまう。
だから結局、相手の想像力に頼るしかなくなる。
「きっとこういう輪郭だったのだろう」という想像に。
そして、それが正しいか否か、ということすらも確認することはできない。
相手が「こういう輪郭でしょう?」と言語化してこちらに届けようとした瞬間、またそれはぼんやりとしたものになってしまうから。
例えば、写真を見たとき。
これは私がいつかに撮った写真。
たまたまこの真ん中の水滴に惹かれて、そこにピントを合わせて撮った。
でもたぶん、ほかの人がこの写真を見ても、私がどうしてこの水滴に惹かれたのかはわからないと思う。
たとえ、「この水滴の形が」なんて説明したところで、私が感じていることをそのまま伝えることなんてできないし。
それは私も同じで、この写真を見てあなたがどう感じるかなんてわからない。
同じ写真を見て、同じ経験をしているはずなのに、隣で同じものを見ている人が何を考えてるのか理解できない。
これほど苦しくて孤独なことってほかにあるのかと思う。
多分ない。
伝わらない、絶対共有できない、そうやってわかっているはずなのに、それでも私はあの水滴の魅力を伝えるために写真に撮ってインスタにあげた。
ここに書いていることだって、絶対そのまま伝わるはずはなくて、それでも書かずにいられなくて、こうやって言葉を探しながら必死に形にしようとしている。
なんだこの矛盾は。
滑稽な姿は。
想像じゃ何もわからなくて、経験しなきゃ心から理解できないはずなのに、本当に知りたいこと、知らなきゃいけないことは想像するしかないなんて、世の中うまくできてないよなぁ。
と、まとまりも生産性もないことを考えてみる今日この頃。