誰も傷つけたくないから。
タイトル通り。
私がやろうとしていることは、本当に正しいのか?
そんなことをずっと悶々と考えている。
ここでいう正しい、というのは、
「誰かを嫌な思いにさせたりすることがない」ということ。
今、ベトナムと日本をつなげて、お互いの町の良いところを話し合いたいと思っていろいろ考えている。
昨日、フィリピンに行ったときに言われたある言葉を思い出した。
それは、これからボランティアするぞ~!って意気込んでた時のこと。
「あなたたちのラインやインスタ、フェイスブックなどは教えてはいけません」と言われた。
最初、変な連絡とかが来るからかなぁ?と思っていた。
でも違った。
理由は、「子供たちが傷ついてしまうかもしれないから」。
私たちが何気なく、例えばタピオカをすっごいお洒落なカフェで飲んでるよっていう投稿をしたとする。
子供たちは、私たちの投稿を見てどう思うだろう。
「ああ、飲んでみたい!」
それで終わるだろうか?と、引率してくれる人が言った。
「それに比べて自分たちは…」
こういう思考になってしまう子供たちもいるのではないか?と。
私は、その時やっと初めて、
「私にとってのあたりまえや、私の『好き』が、誰かを傷つけたりすることがある」
ということを、心の底から理解した。
私が何でこのことを思い出したかというと、
「私が今からやろうとしていることも、一歩間違えればこの二の舞になるのではないか?」と考えたから。
「自分たちにとってあたりまえでないこと・到底手が届かないこと」が、今目の前で話し相手として存在している人にとっての「あたりまえ・気にすらしないこと」だと知った時、どんな気持ちになるんだろう?
私はそのことについてきちんと考えたのだろうか?
とある人と「満ち足り」についての議論をしたとき、こんな言葉が出てきた。
私たちは「持っていないから求める」のではなく、「持っているから求める」のだ、
というような言葉。
そこでは、お金の例が出てきた。
私たちがどうして「お金が欲しい」と思うのか、それはお金の価値を知っていて、お金を少しでも持っているから。
「お金」を使わずに生きていたら、「お金」を目の前にしたときにそれを欲しいと思うか?
多分思わない。
だってそれは、ただの紙切れだから。
これと同じことが、起こらないだろうか?
むやみやたらに日本の紹介をすることで、今ある幸せを壊してしまったり、
傷つかなくてよかった人を傷つけてしまうのではないか?
私はその責任を、取れるのだろうか?
大げさに、考えすぎなだけかもしれない。
そこでたとえ傷つく人が出ても、長期的に見て笑顔になる人が増えるならいいじゃないか、と思うかもしれない。
でも私は、私のやることで誰かがもし傷ついてしまうのだとしたら、と考えると、足がすくんでしまう。
誰も傷ついてほしくないと思う。
なるべくなら、みんなには笑顔で自分の理想を語ってほしい。
誰にとっても価値のあること、誰も傷つけずに済むもの、そんなもの存在するのだろうか。
ちゃんと考えてみよう。
今日もぐちゃぐちゃだぁ。
読んでくれてありがとう。
またね!