国立大AOで入ったら

AOで大学へ入学したら、その後の人生どうなるか?

フランクル著「夜と霧」を読んで考えた「生きるとは」

ある人から面白い読書計画を聞いてから、

「やっぱり私も読書しないといかん」と思い立ち、読書を再開しました。

今日はその「ある人」に向けて、実践報告書を作成しました。

ブログの題材になると思ったのでここで公開します。

 

 

 

 

マイ(?)読書ルール

まず、ある人から聞いた面白い読書計画の説明から。

その人曰く、毎日読書を成功させるコツは「精読本と速読本に分類すること」なのだそう。

  1. 精読本と速読本に分類
  2. 精読本は2日で1冊読み切る
  3. 速読本は毎日読み切る
  4. 精読本が読み切らなさそう、または速読本を読むひまがない、という時は、精読本を読むことを優先させる

例えば、今日精読本半分と速読本1冊読むとするじゃん?

で、明日「忙しいからあまり本読む時間がない」ってなるとするじゃん?

でも、昨日読んだ精読本半分を読むことができれば、その日はもう一冊本を読んだってことになる!という感じ。

つまり、保険をかけておくイメージなのかな?

とりあえず、一日一冊読んでるとなるように帳尻合わせをする仕組みです。

たしかによく考えられている…。

でも問題は、3日坊主にならないかってこと!

だから個人的に、その人とどれだけ続くか競うことにした。

 

というわけで、さっそく精読本を2日で一冊読みましたので報告いたします。

 

夜と霧 あらすじ

 

原題は、「強制収容所における ある心理学者の体験」

原題を見てもらえばわかる通り、かつて強制収容所にいた精神医が、自身の経験を心理学的側面から分析するという内容のお話。

こむつかしく感じるかもしれませんが、心理学の用語がバリバリ出てくる、という感じではなく、私の中ではむしろ小説の部類に入るのではないか?と思うくらい、情景の描写が丁寧に行われているなぁという印象でした。

内容は、NHKさんの番組で紹介されていたらしいので、参考までに。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/14_frankl/index.html

 

 

心に残った文

ここからは、個人的に心に残った文章を紹介します。

たくさんあるのですが、その中でも特に印象に残ったもの3つです。

 

「与えられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」

収容所という環境下に人が置かれたとき、その影響を免れ、尊厳を持って生きることはできないのか、という問いに対しての筆者の答え。

たとえ一握りの人だけが、収容所の中で精神的自由を守り抜くことができたのだとしても、それは、「人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明して」いる、と筆者は述べています。

筆者はこうも言っています。

「生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。」

この覚悟というのが、人間としての最後の自由に値するのだと私は考えている。

筆者は、生きしのげるか、ということよりも、今味わっている苦しみに意味はあるのか、と問うていたそう。

もし苦しみに意味がないのだとしたら、生きしのぐことにも意味を見出せなくなるから。

これって、私たちの日々の生活でも常にとわれてることなんじゃないかな。

 

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

これは、筆者が「精神科医として、どうしたら自己放棄をせずに精神的な崩壊で次の犠牲者(=死者)を出さずに済むか教えてほしい」と言われたときの言葉。

「わたしたちが過去の充実した生活の中、豊かな経験の中で実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。」

この暗い状況にさしている過去からのあたたかい光に注目してみなさい、ということ。

本当にそうだな、と思う。

こんな壮絶な体験でなくても、例えば日々の生活の中でちょっと辛い時、泣きたくなる時、やっぱり支えになるのは、過去にあった楽しかった経験、満ち足りていた瞬間、苦しくても前を向いていた時の勇敢さ、そういうものだから。

 

「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える。」

これは、ニーチェの言葉。

筆者が「生きていることに希望が持てない」といわれたとき、「なぜ生きるか」という問いに答えるときに大事にしていたことが集約されている一文。

筆者は、「生きることの意味を問う」のではなく、「私たち自身がなぜ生きるのか、という問いの前に立っている」という風に考えろ、このようなコペルニクス的転回が必要だ、と述べています。

つまり、「わたしたちは生というものにこのようなことを期待している」という思考から、「わたしたちは生というものからこのようなことを期待されている」という思考に変換しなさい、ということ。

わたしたちは「生きること」がわたしたちに要求してくるさまざまなことに応えて生きていく。

だから、筆者はこのようにまとめています。

「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻刻の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」

君たちはどう生きるか」を読んでAOの入学前課題のレポートを書いていた時の疑問がちょっと解消された瞬間でした。

私は今まで、「生きるってどんなことだろう」と考えたとき、いつも明確で普遍的な答えがバンッと示されるものだと思っていて、それを探すために生きているのだと思っていました。

でもそれは違くて、生きるって何?っていうというに対する答えは、その時その時によってもっと変わるもので、しかも抽象的ではなく具体的なものなんだと。

例えば、受験の時、「AOを受けるか受けないか?」という状況に置かれたとき。

私はどう生きることを求められていたか?

それは、「一般入試の勉強もおろそかにせず、AOの準備に全力で取り組むこと」です。

(もしかしたら、AOという機会を捨てて一般の勉強に専念すべきだったのかもしれないけれど)

例えば、ダイエットしてるとき。

私はどう生きることを求められるか?

それは、「目の前のおいしそうなものに飛びつかず、ダイエットのために必要なことをする」ことですよね。

こんな感じで、「今何をすべきか?」というのがすなわち「生きるとはどういうことか」という問いの答えであり、それと真摯に向き合い実行していくことが生きるということなんだ。

ということです。伝わるかな?

ここで最後に、ちょっと長いけどこの文章を引用しておこうと思います。

「存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることとは決して漠然としたなにかではなく、つねに具体的な何かであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、ほかに類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。それも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、ある時は運命を自ら進んで切り開くことを求め、ある時は人生を味わいながら真価を発揮する機会を与え、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、二つとない仕方で減少するのであり、そのたびに問いに対するたった一つの、二つとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。」

 

 

最後に

 実はこの本、AOの事前課題の推薦図書一覧の中にあった本です。

候補として挙がっていたけど、むつかしそうだとおもって敬遠していました。

結局「君たちはどう生きるか」を読んで、私たちはどう生きるかということを考えたわけだけど、それもあってか今回もなんか自分の中に一つ良い「もやもや」が増えたんじゃないかなぁと思ってます。

さっきも言ったように、私は今まで生きる意味というのは抽象的かつ長く生きていないとわからないものだと思っていました。

つらいことに耐え忍んでやっとたどり着ける境地、みたいな。

だけど、それは違うんだな、と気づいた。

「今何をすべきか」という問い自体が「どう生きるか」ということなのであって、

それを見極めるときの判断基準とかが各々の価値観で、

その選択の結果が生き様として残っていくのかな、なんて考えたりして。

うーん、うまくまとめられないのですが。

 

これは、半年後とかにこのブログと合わせて読んで、感想を比較してみるのが得策かもしれません。

 

…というわけで、こんな風に読書をしていく予定です!

まとめたくなった!ってなったら、たまにこのブログにこうやって載せていくかもしれない。

その時は私の思考整理にどうぞお付き合いください。

 

ではまたね!