国立大AOで入ったら

AOで大学へ入学したら、その後の人生どうなるか?

人生は自分で立てた仮説の検証の連続でしかない

昨日、ベトナムの計画を立てていた時に、今の自分の悩みを相談した。

それは、

「海外に行ってとりあえず何かを見てから行動しようと思う」

という言葉に対するもやもや。

私はこの言葉を聞くたびに、

「なんで見てからじゃなきゃ行動しちゃいけないの?」

「それってただのいいわけなんじゃないの?」

と思ってしまっていた。

でも、かくいう私自身も、

ベトナムに行って何かを感じてから企画を実行していった方がいいのか?」

「何も知らないのに企画を進めていいのか?」

と悩んでいた。

この矛盾に満ちたところを行ったり来たりしていて、もやもやっとしていた。

 

その時に言われたことがこちら。(だいぶ自分の中でかみ砕いてるので少し違うかも)

 

「海外に行って物を見ても次につながらないのは、自分の中で仮説がちゃんと立っていないから。

漠然と『こんな感じかなぁ』と想像している状態で海外にいっても、

そこの雰囲気やそこにあるものに圧倒されてしまって、

自分の中にあった『こんな感じかなぁ』は流されてしまう。

海外に行ったその先に活動したいことや夢や理想があるのだとしたら、

自分の中で『これはこうだからきっとこうなのだろう』という

確固とした仮説を立てなさい。

その仮説が正しいかどうか、その答え合わせのために海外に行く。

それなら、そこにあるものに圧倒されたとしても、

自分の考えが流されることはなく、

自分の考えとそこにあるものをきちんと組み合わせて、

また新たな仮説を立てることができる。

そして、その仮説をもとに、また日本で活動してゆける。」

 

私はこの言葉を聞いてすんなり納得できました。

というのも、以前同じような言葉をかけられていたから。

 

その時は確か、理科教育で途上国支援なんて理想論だとかなんとか言われて、

「やっぱ無理なのかな…」みたいになってた時。

その時、

「別に『理科教育で途上国支援できる』って仮説を立てて、それを検証していけばいいんじゃない?」

みたいな感じで言われた気がする。

この時は、

「正解があるはずだからそれを探して、その正解を実現させていかなければ」

というような思考から、

「正解がわからなくても、自分が正しいって思ったことが本当に正しいのかな~くらいの軽い気持ちで挑戦していけばいいんだ」

っていう思考になって、新しいことや未知のものに挑戦することへの不安とかが小さくなった。

今私がやろうとしていることは全然理科教育とは関係ないけれど。

 

 別に、「人生は自分で立てた仮説の検証」と言っているけれど、

その仮説の大きさもたくさんあって、

小さな仮説を毎日立てることだってできる。

例えば今の私だったら、

「HTMLは一週間で習得できる」って仮説を立てて、

一週間勉強して、

あーできた!ってなればその仮説は正しかったわけだし、

できなかった!ってなったら「なんで?」を考えて、

例えば時間が短かったのだとしたら

「じゃあ二週間あればいけるんじゃ?」

ってまた新たな仮説を立てて勉強して…みたいな。

私たちはもう無意識にたくさん仮説を立ててるんだな。

  1. 自分の価値観と目の前にある現状を組み合わせて問題を見つける
  2. 問題解決のための方法を考える(=仮説を立てる)
  3. 仮説を実行する
  4. そこで得られた結果をもとに仮説を改良し、新たな仮説を立てる
  5. またそれを検証していく

私たちは無意識にこのサイクルを回してるってこと。

 

 

なんか話があっちこっちに飛びましたが、

まとめとしては、

私は自分の企画が面白いもので実現できたらって考えるとワクワクして、

だから「私の企画は自分の住んでいる場所をほんの少し良いものにする」という仮説を立てて、それを検証していく。

だからそのために、

ベトナムってこういうとこだよね、だから私の企画でベトナムはよくなるよね」っていう仮説を立てたい。

だからそのために、「ベトナムってこういうとこだよね」を、ベトナム渡航する前に自分なりの答えを出しておく。

実際に行ったときに、自分の「こういうとこ」っていうものが流されてしまわないように。

そう、だから要するに、ベトナムに行ってないから、とか、海外に行ってないから、とか、そういうことを理由に自分のやりたいことに挑戦しない・できない、なんてする必要ないよね、ということ。

 

あーなんかうまくまとまらないなぁ。

もう少し考えよう。

あ、でも「考える=立ち止まる」とは必ずしもならないと思うので、ゆっくり走りながら時々考えていきたい。

 

人生は、自分で立てた仮説の検証、その積み重ねでしかない。

私はこの考え方好きです。

 

またね。